西暦1523年。

 

空手の始祖『京阿波根』は、国王の命により刀の研磨を命じられた。

その刀は琉球忍者宝刀の一つ  「治金丸(じがねまる)」

 

王命を受けた京阿波根は、治金丸を持ち、京都の研ぎ師の元へと向かう。

しかし、彼は宝刀を狙う二つの影に気づいていなかった。

 

治金丸を奪い、護佐丸亡き後、中城の再興を目論む「護佐丸忍軍」

逆臣として葬られた阿麻和利の敵討ちを謀る「阿麻和利忍軍」 

 

三つ巴の戦いを制し、最後に「治金丸」を手にするのは・・

これは、歴史書「球陽」に隠された、宝剣「治金丸」を巡る戦いの物語

 

「新・治金丸伝説」

 


登場人物 

歴史の裏で、暗躍した影の集団

 護佐丸軍 忍者

(ごさまるぐん にんじゃ)

 中城按司護佐丸亡き後、再び琉球王国で名を挙げ、勢力拡大を図る為組織された諜報・暗殺部隊。

 トンファー、エーク(櫂)などの琉球古武術の他に、剣術や変装などを得意とする。

阿麻和利軍 忍者

(あまわりぐん にんじゃ)

 護佐丸軍同様に勝連按司・阿麻和利亡き後、再び琉球王国で名を挙げ、勢力拡大を図る為に組織された諜報・暗殺部隊。ヌンチャク、サイ、棒の琉球古武術を得意としている。


「京阿波根 実基」

(きょうあはごん じっき)

 

 16世紀前半の琉球王国の武術家。

 元は阿波根地頭職の任にあったが、「治金丸」を京都から持ち帰ったのちに「京」を冠し、「京」阿波根と呼ばれる。

 京阿波根が暗殺された際、「建極、手に寸鉄無く、但空手を以て童子の両股を折破し」と『球陽』の記述にあり、京阿波根が、「空手」でもって暗殺者の童子の両股(りょうもも)を折った様子が記されている。

 この逸話から、沖縄最古の素手の武術家。沖縄武術「手(ティー)」の始祖といわれている。

 作中、力強い「琉球空手」を駆使し様々な敵と対峙する。

伝家の宝剣「治金丸」(じがねまる) 

沖縄の宝剣の一つ。

正式には「黒漆脇差拵 刀身無名(号 治金丸)」。漆塗りの黒い鞘に刃長は53.8㎝の大脇差。

無銘だが応永信国の作であると推定される。

拵の全長は73.6㎝、一般的な大和風の打刀拵えではあるが、鍔は同じ宝剣の一つである千代金丸と同形。琉球王尚家に伝来した三振りの刀のうちの一つ。

 治金丸の逸話として宮古島平良の北に、轟音と閃光が現れ、翌朝に宮古島の豪族・仲宗根豊見親がその場所でこの宝剣を見つけ出した。

 それ以降、豪族・仲宗根豊見親は災いにあうことはなく、伝家の宝剣としたが、凡愚の所有するものではないと(1522年)に中山王に献上した。ところがその帰りに難破して多くの死者をだした、という記述が「球陽」にも残されている。

治金丸刀身
鍔

物語の元になった伝説『京阿波根と治金丸』

 第二尚氏時代、京阿波根実基(きょうあはごんじっき)は尚真王の命令で王家の宝剣「治金丸」を研ぎに京都へ渡航し、今日の研ぎしに宝剣を研がせる。

 しかし、研ぎ師は偽物にすり替えて京阿波根に返却した。京阿波根はそれとは知らずに帰国したが、帰国後に偽物であることが発覚し、尚真王は彼に本物を探すように命令した。

 再び上京した彼は、滞在すること3年にして、ようやく件の研ぎ師を捜し当て、本物の宝剣を取り戻すことができた。尚真王は大いに喜び、褒美に京阿波根に領地を与え、新たな位階を授与した。しかし、その後、 京阿波根は名声の高さから恨みをかい、 また真面目な性格が災いし、言いがかりをつけられ、 ついに首里城で暗殺されてしまった。